対話と身体性

対話は、言葉のやりとりでありながら、とても身体的な営みなのかもしれない。
誰かの何気ないひと言に身体がこわばったり、反対に、安心できる相手との会話で自然と肩の力が抜けたりする。まるで心地の良い温泉に浸かっているような。
身体の状態が心に影響することは、なんとなく想像できる。けれども、言葉を交わすだけで身体の感覚まで変わっていくというのは、考えてみると不思議なことでもある。
僕は日々、葉山のサロンでCS60という身体への施術と、みなさん一人ひとりに向き合う対話を大切にしている。この二つは異なる営みだけれども、経験を重ねるほど、どこか深いところでつながっているように感じていた。どちらも大切だということだけは理解はしていたのだけれど。
そんな折に読んだのが、精神科医・斎藤環さんの『イルカと否定神学』。
副題は「対話ごときでなぜ回復が起こるのか」。
本書では、フィンランド発祥の精神医療のアプローチ「オープンダイアローグ」を手がかりに、精神分析や哲学、認知科学などを横断しながら、対話による回復の謎を探究している。
決して読みやすい本ではないのだけれど、読み進めるうちに、これまで身体や対話と向き合うなかで感じていたことに、少しずつ言葉が与えられていくような感覚があった。
わからなさを残しておく
本書のタイトルにある「否定神学」とは、もともと神の本質を人間の言葉や概念では完全に捉えられないとする思想のこと。
何であるかを言い切るのではなく、「何ではないか」という否定を重ねることで、その存在に近づこうとする。
斎藤さんは、こうした思想を精神分析における人間の欲望や無意識の問題とも結びつけて考察している。
この考え方に触れて、僕自身は、人と向き合うときの姿勢について改めて考えさせられた。
僕たちは誰かの話を聞くと、つい理解しようとする。何が原因なのか、何を求めているのか。ときには相手よりも先に答えを見つけようとしてしまうことさえある。
けれども、人間はそんなに簡単に理解できるものではないはずだ。
言葉にならない思いもあれば、本人にもまだわからない感情がある。
そう考えると、対話においては「何をするか」と同じくらい、「何をしないか」が大切なのかもしれない。
相手を決めつけないこと。沈黙を急いで埋めないこと。そして、感情を理解しきったと思わないこと。
わからなさの余白を残しておくことは、決して相手への無関心ではなく、むしろ他者を尊重するためのとても大切な姿勢なのだと思う。
変わろうとしないことで、変わっていく
本書でもう一つ印象深かったのが、グレゴリー・ベイトソンの「コンテクスト(文脈)」と学習理論についての議論だった。
人は経験を通して、行動だけでなく、世界の捉え方そのものを学習していく。
例えば、誰かに頼ることを「迷惑をかけること」だと感じる人もいれば、ごく自然な助け合いだと感じる人もいる。
どちらも、これまでに経験してきた人間関係や環境によって身についた、その人自身の世界の見方なのだと思う。そして、一度身についたコンテクスト(文脈)は、そう簡単には自分では変えられない。
自分を守るために身につけた考え方が、いつの間にか自分の自由を狭めてしまうこともある。
興味深いのは、こうした固定されたコンテクスト(文脈)が、他者との対話によって揺らぐ可能性があるということ。
オープンダイアローグでは「ポリフォニー(多声性)」という、異なる声がそれぞれの独立性を保ちながら響き合うことが大切にされている。
誰か一人の解釈が正解になるのではなく、さまざまな声や視点、時にその「場」の空気も交わることで、それまでの当たり前が少しずつ揺らぎ始める。
僕がサロンで行っているのは複数人ではなく、一対一の対話なので、その働きは同じではない。
それでも、対話をしているうちに、自分でも気づかなかった思いが言葉になったり、出来事そのものは何も変わっていないのに、その意味が変わっていくことがある。
対話の面白さは、何かを教えたり、答えを導き出したりすることにあるのではないということだけは言える。
むしろ、変化を急がず、予期しない言葉が生まれる余白を残しておく。
そこに、対話の持つ可能性があるということなのだと思う。
身体と言葉のあいだで
そして今回、僕が特に惹かれたのが「身体性」についての議論だった。
本書では、身体的な経験そのものが、言葉や思考の成立に深く関わっていることが論じられている。
身体は、単に心を入れておく器ではない。
僕たちは身体を通して世界に触れ、感じ、考えている。
そう捉えると、対話もまた、頭のなかだけで行われるものではないのだ。
声の調子や表情、呼吸、沈黙、そして二人のあいだに生まれる間。
言葉を交わすという行為には、思っている以上に身体的な要素が含まれている。
僕は8年ほどCS60による施術に携わり、身体への働きかけを続けてきた。
そして、もう一つの柱として大切にしてきたのが対話だった。
身体に触れることと、言葉を交わすこと。
どちらか一方がもう一方を補うというよりも、どちらも人間という一つの存在に向き合うための、大切な入り口なのだと感じている。
身体が緩むことで、それまで出てこなかった言葉が生まれることもある。反対に、対話を通して、身体の感じ方が変わることもある。
もちろん、それがいつも起こるわけではないし、意図して起こせるものでもない。
それでも、身体と対話を切り離さずに向き合ってきたことには、自分なりの意味があったのだと、今回の読書を通して改めて感じた。
変化を急がない
人は、変わろうとするほど、変われなくなることがある。
一方で、変えようとする力をふっと緩めたとき、思いがけない変化が生まれることもある。
この逆説は、僕がサロンでお客様と向き合ううえでも、大切にしたい感覚と重なっている。
不調を改善したいという思いに応えるために、できる限りの働きかけはしたい。
だけれども、施術者が「治す人」、お客様が「治される人」という関係に固定されてしまうと、そこに新しい
可能性が生まれる余地は少なくなってしまうのかもしれない。
だからこそ、変化を急がないこと。
身体の声にも、言葉にも耳を傾けながら、その方が自分自身の感覚を取り戻していく余白を残しておくこと。
何もしないのではなく、変えようとしすぎない。
『イルカと否定神学』を読み終えて、身体への施術と対話の両方を続けてきてよかったと、改めて思った。
人が変わっていくということは、誰かが一方的に何かを与えることではなく、関係性のなかで少しずつ生まれ、変化していくものだ。
僕も変わるしあなたも変わる。
その関係性の中で、心身が心地よい状態になるのが何より幸せなのだと思っている。
これからも、その変化を急がず、丁寧に関わっていきたい。